2006年06月17日

紳助さんのエピソード【傷害事件と謹慎】

2004年10月25日に大阪・朝日放送で『クイズ!紳助くん』収録の前に吉本興業の女性マネージャーと口論になり、首を殴って頸椎に捻挫を負わせていたことが明らかになった。女性マネージャーは大阪府警に被害届を提出し、10月28日付で傷害事件として正式告訴された。同日には吉本興業の東京支社で記者会見にて謝罪した。

これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した、但し『行列のできる法律相談所』については法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で番組レギュラーである東野幸治を司会に立てて放送した。

大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「被疑者」として傷害罪の疑いで大阪簡易裁判所へ書類送検し、略式起訴で30万円の罰金となった。

暴行事件後の10月の会見で島田紳助は「髪をつかんで座らせ、平手で一発」と発表していた。しかし、その後の略式起訴の際には「右手やリュックサックで頭を殴ったほか、髪をつかんで壁に打ち付け、つばをはきかけるなどの暴行を加え、約2ヶ月のけがを負わせた」という起訴事実を認めたことが分かっている。

なお、本人は、当初の11月4日までの芸能活動自粛期間の無期限延期を表明し、11月8日の『キスだけじゃイヤッ!』を最後にブラウン管から一時期姿を消した。2005年1月2日に『行列のできる法律相談所』内の生放送で復帰のあいさつと、事件についての謝罪を行い復帰した。
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2006年06月16日

紳助さんのエピソードその4

個人事務所を鈴鹿サーキットにあるコーナーの名称から「130R」と名付けた。板尾創路とほんこんがコンビ名を付けるときに、板尾がこの「130R」を気に入りコンビ名にした。一方は島田の会社、一方は吉本のコンビで、名前をもらった以外のつながりはない。しかし、島田紳助が領収書をもらう際に領収書に「130R」と書いてもらうとき、「板尾創路とほんこんに雇われている」と勘違いされることがあるという。
石垣島好きで有名であり、石垣島に喫茶店「TOMURU(トムル)」をオープンしている。また、2005年11月には大阪・東心斎橋に紳助の長年の夢であった「寿司 はせ川」をオープン。
熱烈な読売ジャイアンツのファンで特に長嶋茂雄信者である日本テレビの元アナウンサー・徳光和夫に対して、長嶋のことを「見えません!あんなのバーバリーのおっさんやないですか」と発言し、「日本中でそんなのいうのはあなただけですよ」と切り返された。ちなみに紳助本人はどこのファンとは明言してないが、スカイ・Aの阪神関連番組をよく見てると語ってたり、桧山進次郎や片岡篤史などの京都出身の阪神の選手と親交が深いことから、かなり阪神寄りと思われる。
元相方の松本竜助については「いま消息不明で、どこにおるかわからへん」、「実は(松本は)いっこく堂の人形で俺が操っていた」、「俺は最初からピン芸人やった」など番組内においては散々にけなしているが、著書などにおいては「彼が居たから8年もの間漫才が出来た」などと相当な感謝と畏敬の念を持っている。また、近年竜助が金銭に困っていた際は紳助が面倒を見ていたことも、おすぎなど友人の口から明らかになっている。2006年3月に竜助が倒れた際も、予定されていた新番組『芸恋リアル』の製作発表会見など東京における仕事を全てキャンセルし、大阪へ駆けつけるが、同年4月1日に竜助は逝去。その日は、ちょうど『オールスター感謝祭`06』の日であり、紳助は悲しみに浸りつつも生放送本番に励んだということになる。実際、オール巨人も本番終了後は朝まで紳助と泣きながら竜助の思い出話をしながら呑んでいたことを明らかにしている。
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紳助さんのエピソードその3

同学年でデビューも同期の明石家さんまとは親友であり、ライバルである。数少ない芸能界でさんまと対等の付き合いができる人物(他はオール巨人と大竹しのぶぐらいだろう。)2005年7月23・24日放送のフジテレビ系列の『25時間テレビ』の1コーナー「さんま・中居の今夜は眠れない」で、生放送中に逃亡した総合司会の笑福亭鶴瓶の代わりに登場。2005年4月2日放送の『うまッチ!』とともに、久々の共演を果たし、お互いの過去の恋愛を暴露し合った。二人の共演は2000年に放送された『パペポTV』最終回での友情出演以来。また、2005年9月27日放送の『踊る!さんま御殿!!』でも共演。
分析家で戦略家。現在はテレビ番組の司会者を務めることが多く、そのテレビ番組にも企画段階から携わる。1年に1回ぐらいしか他人の番組にゲスト出演せず、火曜日から木曜日は休みらしい。しかし、最近は『魔法のレストラン』(関西ローカル)で「寿司 はせ川」の舞台裏を見せたり、『ダウンタウンDX』や『新どっちの料理ショー』などにもVTRながらもゲスト出演するなど、他人の番組に出る機会が増えている。
動産・不動産を問わず、かなりの資産家で財テク能力にも長ける。こうした現実主義な面を見せる反面、鈴鹿8耐挑戦やガンバ大阪の熱烈なサポーター活動、環境問題から大阪府豊能郡に一時期自宅を構えた事等、理想主義者としての顔も。
料亭に勤めていたことがあり、料理の腕前は芸能界でトップクラス。『料理の鉄人』で陳建一と対戦したことがある。『SMAP×SMAP』の1コーナー「BISTRO SMAP」にゲスト出演したときも腕前を披露した。
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紳助さんのエピソードその2

1975年9月に松本竜介(1956年4月6日-2006年4月1日、解散後松本竜助に改名。徳島県出身)と漫才コンビ紳助・竜介結成。リーゼントにおそろいのつなぎを着るというヤンキー漫才を確立し、1980年に起きた漫才ブームに乗って一躍ブレイクした。当時高校生だったダウンタウンの松本人志は紳助竜介の漫才に衝撃を受け、「面白いって事は格好いい」と悟ったという。
1982年に突然、東京大学への受験を宣言。共通一次試験の受験会場で受験阻止を訴えるグループと騒動が起き、またマスコミの過剰な取材に激怒したため受験を断念した。この出来事は後に紳竜の漫才のネタにもされた。
歌手でタレントのやしきたかじんがまだ無名だった頃、たかじんの留守番電話が面白いということで、自分の番組のゲストによく番組中に電話をかけさせていた。(その当時のたかじんの留守番電話はたかじん自らが作詞作曲した「留守番電話の歌」が流れていた。その歌はたかじんのアルバム「ソング&トークライブ わが輩は歌手である」のトークで披露している。)
1985年に紳助・竜介は解散。その際、「このままでは太平サブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と発言し、当時無名に近かったダウンタウンの将来性をすでに見抜いていた。 吉本芸人をもっと知りたい方はこちら>>
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紳助さんのプロフィールその1

一人っ子で寂しがり屋。短気だが、意外と涙もろい性格。父は元国鉄マン。
父親の職業と関係があるのかどうか分からないが東海道本線の東京〜神戸間全駅を空で言うことが出来る。
18歳のとき、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である漫才コンビの島田洋乃介・今喜多代(現・今日喜多代)に入門。同期に明石家さんま、オール巨人、桂小枝などがいる。若い頃には緻密な研究ノートを書いており、それを見たオール巨人を驚愕させたという。「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と誓ったが、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と当時を振り返っている。しかし洋七との兄弟弟子としての絆は今も深い。また直接の師匠ではないが、上岡龍太郎を心の師として尊敬している。
少年時代に暴走族をしていたが、それを逆に敢えて自分を「無教養側」の立場において「教養側」の石坂浩二と対抗軸で組んでみるようにするなど、番組内で強みとして生かしている面が多い。但し実際にはかなり目利きは出来る。
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